文体練習

片根伊六(かたねいろく)による、詩、物語、小説、エッセイなどを掲載しています。

ラヴィーヌ将軍と主婦Kyさん

            ラヴィーヌ将軍がダンスを踊る。コミカルに。ちょっと古いけど。ちょっとオヤジ、入ってるけど。チョビ髭も踊る、ラヴィーヌ将軍。ジャンプ、びっくり、六〇センチ飛んだ。「なかなかやるじゃん」 ところで、ラヴィーヌ将軍って、誰? <!--more-->謎のオヤジ。あぶないオヤジ。「ちょっと、いいかも……」

おお、主婦Kyさん。あなたは時計のように美しい。ぼくのように悩んだりせず、気負ったり落胆したりせず、立ち止まったり、戻ったりせず……、正確に、たんたんと、時を刻む……。

武蔵野市にお住まいの、主婦Kyさん。ラヴィーヌ将軍がお待ちです。至急、デラックスシートまでおこしください」

ああ、ラヴィーヌ将軍。あなたは集中治療室のように勇ましい。わたしのように無精でなく、投げだしたり、隠したりせず……、清潔に、厳粛に、任務を遂行する。

イヤラシイことを考えながら、ブランチセットBを食べる、主婦Kyさん。コーヒー好き、と言ってたはずなのに、紅茶をたのんだ。美術のことを知らない、美大をでた美人の主婦、Kyさん。「今度、みんなで、Ms寺に行ってみませんか? 紅葉のころに……」

赤いママチャリに乗る、主婦Kyさんを先に行かせ、後ろを走りながら見ている。大きなクスノキの下を走る、小さなママチャリの主婦Kyさん。大通りにでると二人は別れる。一時間半、絵をみて、一時間、オチャして、お昼前に別れる。そんな二人の恋いのゆくえは……。

 

偽造された季節がテーマだった。 偽造された季語を持ったビジネス・ガールの横で、ぼくは映画を見る(フリをしていた)。 映像で季節を偽造できた時代を模倣して、ぼくは映画を見る(フリをしていた)。

太陽が、精確に移動している。 雲がランダムに配置され、裏の秩序に従っている……。

ビジネスから自由なビジネス・ガールのうちの一人が、「明るい部屋」のデザインを担当し、ぼくが映画を撮るのだった。 題名は、『明るい部屋の季節』だった。 一九七〇年制作(ということにした)。 ぼくが生まれたとされる例の年の、機材とレトリックを使い、背景は、季節が消えた後の、透明なミドリの空間だった。 そこに一人、ビジネス・ガールが浮かんでいて、本当は、それだけでよかった。 あとは、この映像を映画として流通させるための、外観だった……。

街から建築家が撤退し、季節を支配するモノだけが残った。

 

ぼくのアパートの前には、小さな水路があって、五〇メートルくらい下流に行くと、古い小さな橋が架かっています。 そして、その橋を渡ったところに、ドトール・コーヒーがあります。 ぼくは毎日、朝の九時から十一時までの間、二階の窓側のカウンター席で、本を読みます。 読む本は、出かける直前に、その時の気分で選びます。 迷った時は、三冊くらい予備で持って行きます。 注文は、だいたい、ブレンドコーヒーのMとフレンチ・ペッパーハムです。

きれいな奥さんは、いつも決まって、一〇時十五分にやってきます。 正確には、その女の人が、奥さんかどうかはわかりません。 いつの間にか、そう思い込んでいたのです。 でも、なんとなく、そうとしか思えません。 奥さんは、橋の右側を通ってやってきます。 席は、ぼくと同じカウンターの、ぼくと反対側の端っこです。 いつもだいたい、カフェラテのMを飲んでいます。 奥さんは本を持っていません。 待ち合わせでもありません。 ぼおっと水路を眺めています。 穏やかな表情で眺めています。

奥さんは、何か考えごとをしているのでしょうか?

 

とても無防備で完璧な、明るい、生まれたてに微笑むイメージが、早朝に放流されたホタル的に、光っている。ぼくの向こう側の奧で、すぐ近くで。 うれしいけど、圧迫された感じで、涙がでそうになるのだ。 思いつきで動くのだから、こっちで制御できないのであって、もう、どうしようもないのだ。 ああ、どこかに素晴らしく上品な区切りのボードがあって、その向こう側で、ふわふわ、最高の状態で漂っている。 ぼくは夏の夜のサラサラの砂浜を転げ回って、やりすごすだろう。 こぼれ落ちるだろう。 やがて、いろんなスケール感が解放されて、充実した放心状態になるのだ。 その他のことは全部、拒否する予定だ。

 

好奇の目でみられるようになった、スーパーウーマン的な人が、一〇メートル~五〇メートルの高さの所を飛んでいる。 知りあいの人が来た。 「飛べるようになっておめでとう。すごいね」と言った。 彼女は逃げた。 飛んで逃げればいいんだけど、なぜかその時に限って飛ばないで、ヘンな狭い、道じゃないすき間を、異常なスピードで走るのだった。 微妙に飛ぶときの力が作用していて、脚が空回りしているような感じで、しっくりこない。 でも、スピードは異常にでていた。 知りあいから逃げるという本来の目的から進化して、狭いすき間を高速で走り抜ける、ということ自体が目的になって、感覚がパワフルにハイになって、脳を中心とした神経の体系が爆発的に、高度に感覚的に進化した状態で、彼女は一人、ヒマワリのある夏休みの早朝の中庭に立っていた。 向こうから、新進気鋭の批評家が、紅いスーツを着て、意味ありげに歩いてきた。 彼女は寝てテレビを見ながら、「ようこそ! 我が中庭へ」と言った……。

 

 

約束どおり十一時に、Kyさんは、赤いママチャリで、いつもとは違う雰囲気でやって来ました。セイユーで、いろんなものを買ってきました。コンビニじゃなくてセイユーというところが、Kyさんらしくて最高です。中身は、カップラーメンがメインです。あと、ポテトチップスの新発売の味のヤツと、一リットルのグレープフルーツジュースと……あと、その他にも何かあったと思いますが、細かいことは忘れました。

 

球根をもらった。 「じゃあまた、出世したら、飲みに来ますね」 「うん。期待しないで待ってるよ」 球根を見たのは初めてだった。 ブツブツがあり、部分的にテカテカ光り、上の方がシワシワにたるんだりしていて、毛をむしった直後の鶏肉みたいだと思った。 「球根の意味、知ってます?」 球根、どうしよう。時期的には、いつ植えればいんだろう。土とか、肥料とか、水とか、いろいろあるんじゃないかなぁ。 タバコ、もう一箱、持ってくればよかった。 で、だいたい、なんの球根なんだろう。なんか、やっかいだなぁ。 「あっ、ねぇこれ、私だと思って育ててよ」 「あっ、ありがとうございまぁす。どおもぉ」 球根をじっと見つめていると、不思議な気分になってくる。鼻の奧の温度が異常に上昇して、蒸し器の中のような状態になって、にぶくて温かくてヌルヌルする部分的な感覚に、身体と思考がぜんぶ支配されていく…… 「なんかいっしょに、歌おうよ」 「あぁっ、ぼく、歌、ぜんぜんダメなんで」 どうしよう。早く植えなきゃぁ。 生きてたのか……。 あぁ……、くそぉ……、なんなんだ……。 あぁ、どうしよう……。ああ……。もぅ、なんでもいい……。

 

ルコントの『仕立て屋の恋』を見た後、二人は感傷的な気分になって、交代で秘密を打ち明け始めました。ラヴィーヌ将軍は三つ、主婦Kyさんは二つ、それぞれ打ち明けました。 そして、二人はかなり、親密な感じになったのでした。

三時になると、Kyさんは、「そろそろ、子供、迎えに行かなきゃ。そろそろ、帰りますね」と言って、あっけなく帰ってしまいました。ラヴィーヌ将軍の準備は、すべて、ムダに終ったのです。何もかも全部ムダになってしまったのです……。

 

大幅に修正された家具の配置……。ラヴィーヌ将軍の部屋は、ある目的のために特化された高度に戦略的な空間であった。動線計画は何度もシミュレーションされ、何度も修正され、ある一つの完成されたものへと形づくられていった。そして、彼の言うところの「視線のデザイン」も満足のいくものであった。特に、入り口のドアを開けた瞬間のKyさんの視線。ソファーに座った時のKyさんの視線には、細心の注意がはらわれた。その他、ライトの向きと明るさ、前面に出すCDや本の選択、出しておく物と隠しておく物との区別……。やりすぎないように、無造作に、作為が見えないように、自然に、なにげなく……。

テーブルの上に無造作に置かれた村上春樹ドゥルーズ群ようこ(Kyさんは群ようこが好きらしい)。 冷蔵庫の中のビール・ジン・ウオッカ・オレンジジュース・ライム・あんず酒・炭酸水・氷(買ったばかりのウオッカとあんず酒は、三分の一くらい棄ててある)。 ベッドの横の棚に移動された画集や写真集(ちょっとコーヒー入れて来るんで、そこの画集でも見てて下さい)。

 

黒の銀色の中に、一点のオレンジ。主題は、その中に置かれるだろう。

あなたを一度、連れてきたかったの、と彼女は言った。 目隠しを取ると、オレンジ色の中に、彼女がいた。 あたり一面、水銀の海だった。

ぼくらは水銀の海に浮かんでいる。水銀の海に浮かぶ、透明アクリルの円盤の上にいる。直径五メートルくらいはあると思う。 円盤の中心には、発光体が置かれているが、海は、どれくらいの深さで、どこまで広がっているのか、天井はどのくらいの高さなのか、あるいは、天井は存在するのか……、見当がつかない。

あなたに一度、これを見せたかったの、と彼女は言った。 空間には空気の流れがなく、水銀の海は静止している。 発光体が創り出す完全な半球体は、水銀に映って、完全な球体になっている。

ぼくらは、オレンジの球体の中で、二人づつ、向き合う。

 

青く光る山のオレンジの道を、ラヴィーヌ将軍と主婦Kyさんは、のぼった。赤い雲が終わるあたりの、ピンクの川にかかる、緑の橋のうえで、見つめあう。だきあう。そして再び、北東に向かって、逃げる。

髪の毛が黄色くて顔が肌色の踊る兵士が、追いかけてくる。だから逃げる。透明な見える風にのって、兵士が、やってくる。通りすぎる。ほっとする。星と月とコウモリが描かれた、夜用の紫のカーテンで、夜になる。見つめあう。だきあう。そして新しい、別の夢の中へ、二人で逃げこむ。

無色の強気な朝になると、例の、髪の毛が黄色くて顔が肌色の踊る兵士が、やってくる。見つかる。追いかけられる。つかまる。スキを見て逃げる。再びつかまる。二人殺して、逃げる。逃げ切る。ほっとして、そして、落たんする。

銀色のピラミッドが見えてきた。ラヴィーヌ将軍と主婦Kyさんは、のぼった。ちょうど三分の二の高さの、透視図の、消失点があるところで、見つめあう。だきあう。そして、そこが、二人の新しい、夢の中での架空の、家になったのだった。

 

広くてシンプルな空間を手にいれた。オフィス街にある、広い窓のある、浮んでいるような空間だった。二人はそれぞれ、気に入った場所にテントをはった。

ラヴィーヌ将軍は窓の近くを好んだ。基本的に南側の窓の前だが、気分によっては、東側に移動することもあった。テントはダンロップ社のW471を選んだ。四人用で、前後室に荷物スペースがあって使いやすかった。外観もシンプルで気に入っていた。

Kyさんは、いつも空間の真ん中にテントをはった。シェラデザイン社のストレッチプレリュード。交差した四本のフレームに白い布がはられたもの。とてもエレガントなテントだった。

モノを置かない。それがルールだった。二つのテントがあって、それだけにしたかったのだ。私物をテントの中に置くのは自由だが、空間には、何も置いてはならなかった。服も、靴も、洗面用具も、自転車も、テレビも、テントの中なら自由だった。

二人だけしかいない世界で、一人暮らしをしている。そんな感じだった。

ラヴィーヌ将軍は、戦術の研究に、一日の大半を費やした。いつ戦争が起きてもいいように、最先端の戦術をチェックしていた。 Kyさんは、野心的でない美しい絵を描いて、一日の大半をすごした。

絵を描くのに疲れると、Kyさんはラヴィーヌ将軍に携帯をかけた。 「今、なにしてるの?」 「ぼーっとしてた。Kyさんは?」 「私も。ぼーっとしてる」 「絵は、進んでるの?」 「うん。ぼちぼち」 「元気?」 「うん。あんまり元気じゃない……。今から、そっちに行っていい?」 「いいよ。コーヒー飲む?」 「うん、飲みたい」 「じゃあ、五分くらいしたら来て」 「うん、わかった。じゃあ、あとでね」 「うん。あとで……」

 

ぼくの部屋の中を、裸で歩き回る女の人がいる。 かれこれ三ヶ月、歩き回ってる。 もちろん、いつも裸なわけじゃないんだけど、他の女の人と、この女の人との、決定的な違いは、裸で歩き回るということ。 そして、ぼくも、この女の人の前を、裸で歩き回る。 実家の家族の前でも、裸にならないのに、この女の人の前では、ぜんぜん平気。 まったく不思議です……。

 

ぼくの小指と、Kyさんの小指は、見える、赤い糸で結ばれている。さっき結んだ一メールの、古いセーターの赤い部分の、赤い毛糸。バカみたい。でもなんか、いい気分。この恥ずかしさ。古典的なような、未来的なような、懐かしいような、生まれて初めてなような、ヘンな、いい気分。バカな約束だけど、今日一日、赤い糸で結ばれつづける……。

Kyさんが料理をはじめた。Kyさんが右に行くと、ぼくも右に。Kyさんが左に行くと、ぼくも左に。じゃまにならないように、うしろで赤い糸を調節する……。 料理をする時のKyさんは、異常に無口だ。ちょっかいを出したら本気で怒る。だから、うしろに静かにくっついて、じっと見ている……。 ずっと後ろ姿ばかり見てると、ヘンな感じで、おもしろい……。

「ちょっと、トイレ……」とKyさん。 「うん……」とぼく。 ぼくらは一メートルの距離でトイレに向かう。赤い糸の五〇センチところが、ドアにはさまれて、カギがしまる(アオからアカに変わる)。 七分くらいして出てくるまで、いろんなことを考えた。 「待った?」とKyさん。 「おつかれさま」とぼく……。

ぼくは洗濯をはじめた。といっても、洗剤を入れてスタートボタンを押すだけだが……(洗濯機の三分の二くらいまで洗い物が溜まったら、スタートボタンを押す。ぼくはその係りだった。あと、洗い上がったやつを干すのも)。 洗い上がったやつを干している時、Kyさんが、ずっと後ろにくっついてきていた。ずっと後ろから見られているのは、ヘンに意識して緊張するから、嫌だ……。 ところで、洗濯機の中にKyさんの下着が入っているのを見たことがない。干されているのも見たことがない……。隠しているのだろうか? 普通そういうもの、なのだろうか? そのへんの微妙なところが、なんとなくいい……。

窓のスクリーンは、上げたままで、広い窓の外は、青空で、バカみたいな二人は、さらしもの(衆人の前で恥をかかされること)。 十一時頃、一瞬、「何やってんだろ……」と、一瞬、思ったけど、全体として、ヘンないい気分。 街を見おろす高いベランダで、二人は並んで本を読む。 ぼくは、『カウント・ゼロ』(ウイリアム・ギブスン)。Kyさんは、『おもろい夫婦』(平田俊子)。 街の「ゴォオオオー」という雑音が、不思議だ……。

 

思いきってやってしまうタイプの女性だ。 ぼくの小説への出演を、OKしてくれたんだ。 ぼくは、意味ありげに、どしどしやってもらった。 真剣に、知的に解釈して、なんだってやってくれた。 顔がいいんだ。 古いコンクリートの壁を背景にして、静止するんだ。 伝統的な手法で光が強調されて、小説が、生き生きするんだ。 丸みのある光と影の描写で、彼女の物語が、さりげなく流れる。 朱色のバラが差し込まれて、いつの間にか、完結するんだ。 古いコンクリートに雨が黒く染み込んで、暗示的で、それは、いつだって痛々しい。いつだって秘密にしたい。 小さくて、謎めいてる……。

 

水泳美人は、ゆったりと、高速で泳ぐのでした。 そして、三〇分ほど泳いだあとで、デッキチェアーに大きく横たわり、『人を動かすには』を読むのでした。 だからぼくは、「オレは動かないゼ!」と思ったのでした。 「オレは山だ」「オレは山のように動かないゼ」 でも水泳美人は、水のように大きな水面の上を、大胆に動くのでした。 シャチに似ています。 だったら、「シャチに乗って、オレは、シーワールド(海世界)の海のようなプールで、シャチ似の水泳美人の上に君臨する」ところを、想像してみようかな……。 まったく、たいしたものです。 あと、もう一つ。 ぼくは、「シャチ似の水泳美人の腹に、くっついて、水中での未体験の速さを体験した。オレは、スイミング・キャップをかぶった、お笑い好きの、こばんザメ。わっかるかな? わっかんないだろうな……。イェ~イ」 今日も日が暮れる。アァ、コレコレ。チョイナ、チョイナ。 ジョイナー? いろんなことが、あるものです……。

 

仲間だよ。友達だから。ダチだし。遊ぶ。楽しい。確かに楽しい。何かある。何だろう? 義務に感じる時があって、それが気になる。遊びたくない時もあるんだけど、なんとなく行かなきゃマズイ気がする。でも、そんな日にかぎって、めちゃくちゃ楽しかったりする。遊ぶ? 好きな人と遊ぶ。完璧に遊ぶ。純粋に遊ぶ? 子供のように? おもしろい。幸せ。充実。人生。仲間だし。

「ラヴィーヌ! 子供のように遊ばない!?」 「何して遊ぶ?」 「それが問題ね……」

百科事典の解剖図のモデルになった女がキミで……。うわ目づかいで天国を見つめるヌードの妊婦が……。帽子をかぶった椅子がアナタに腰かけて……。秘密基地で愛し合うテレビと電話のように……。魔法の光でキミのスカートの秘密を……。ポセイドンは海を行き……。アナタは中を行き……。ツメの長い女のツメのアカをサイホン式で……。ビスケットを動く少年に見立てて……。

「新しくて楽しい遊びって、ありそうで無いのね」 「戦争と同じだね……」 「……お昼、どうする?」 「サムラートが、マレー料理はじめたらしいよ」 「じゃ、それでいこう」 「じゃあ……」

 

静かな夜だった。 「どうしたの?」とぼくはたずねた。 いつも、五日市街道のバイクの人たちや、空地で練習しているヒップホップの人たちで、うるさいのに、今夜の夜はずっと黙ったままだった。 「あたしだって考えごとくらいするよ」と夜は言った。 なんだか居心地がわるい。 しーんとして、二人きりでいると、ぎこちない。 しょうがないから本を読もうと思った。テレビをつけると、なんか、もんく言われそうだから。 ぼくは夜の様子をうかがいながら、静かにうしろを通って、本棚にいって、選んでいた。 ぶなんに村上春樹にしよう、とは思っていたけど、なんかピンとくるのがあるかもしれない、とも思って、一応選んでいた。 すると、「なんで、二人でいる時に本なんか読むかなあぁ」と、いつのまにか夜がうしろにいて、ぼくに言った。 ぼくはビクッとして、ふりかえって、「エ、ちょっと見てるだけだよ」と言った。 あきらかに、今の夜は、何もかも気にくわないモード、に入っている。 今夜は最悪だ。 ぼくは、夜には悪いんだけど、心の中で、はやく朝にならないかな、と思っていた……。

 

うしろポケットの文庫本が汗で湿る。白い、白色の太陽が髪の毛を焼く。もうすぐ脳がやられるだろう。そのうち、どこかに着くだろう。 ダサイ住宅は、全部、白に塗るといいよ。少しはマシになるだろう。それと、洗濯物を干すのを禁止にするよ。ぼくの独断で。 アスファルトが有毒ガスを吐く。壁のチープなペンキが内蔵を侵す。電線が空にイビツに食い込む。ホラー映画より教育に悪いよ。悪夢よりもタチが悪いし…… コンクリートの割れ目から雑草が生えていて、目障りだがら、踏みつぶした。

 

ぎこちない腕をひきづりながら、輪郭の紅い、黒い液体をゴクゴクと飲む。こよい、カラダが心地よい麻痺状態で、ナニか特別な日の前夜である、こよい、脳がピクピクと寒気を感じている。 天上の人々がラッキーな、元、地上人でしかないと気づいた日から数えて、ちょうど二十八年後のココで、組織の複製は新しい段階に入るだろう。 中枢を操作する技術を身につけた人間が、密かに、召集され、彼らだけに分かる記号体系で書かれたメモが、全員に配られる。 行動とは違うレベルの変化が、彼らに関係して始まるだろう。 こよい、密かに静かに……

 

スランプです。戦争の学会を二つ、ぶっちぎりました。シンポジウムを一つ、仮病で休みました(熱が八度五分、あるんですょ……)。 何かやらなきゃならない。なんでもいいから成果物がほしい。どうでもいいことはやりたくない。 主な症状としては、戦争のことを考えると目の横が痛い、論文を読むと胃が自爆しそうだ、村上春樹も効果がない、『棚から落ちて来た天使』(赤川次郎講談社、一九八六年)さえ読めない、小泉今日子しかいない、などがあげられます。

「ごめんください。子供管理事務局の者ですけどぉ」 「はい、なんでしょう?」 「おめでとうございます。お子さんが決まりました。こちらが、今日から、おたくのお子さんになります」 「えっ、ウソッ、そうですか? ホントですか? あぁ……、いま、主人がいないんですけど……。手続きとかは……」 「今日は、受け取りのサインだけでけっこうです。性別、性格、呼名とか、もろもろの特徴が決まりましたら、こちらの書類に記入して郵送して下さい。それから、誕生番号と登録番号は間違えないように注意してください。学校の入学から保険や年金まで、この子が一生使う番号になりますから」 「はい、わかりました……。ごくろうさまです……」

Kyさんは、昼間一人の時(三井ビルの前の広場で)こんな空想をするのでした。そんなKyさんの気持ちをラヴィーヌ将軍は、知るよしもありませんでした。で、そんなラヴィーヌ将軍の気持ちをKyさんは、知るよしもありませんでした。

ユートピアではありませんでした。というより、ユートピアではなくなりました。二人の問題です。溜まって、停滞しているのです。「なんとなく解ってきた」とか、「あとひといき」とか、「完璧だ! 最高だ」とかの時はよいのですが、それを過ぎると一週間で、ダメになるのです。

腐ってます。気持ち悪いです。ダサくて、自覚的でなくて、バカみたいです。だから逃げます。新しいユートピアを速攻でつくって、仮設のワンタッチの場所をダッシュでつくって、めざすのです。

他に方法がないのです。止まるとヤバイのです。かなりヤバイことになるのです。ゾッとします。だから止まれないのです。意識的に空まわりするのです。空まわりが加速します。等加速度直進運動に似ています。老化促進剤が必要です。数は売れませんが、高値で売れるでしょう。二人もムリして買うでしょう。借金してでも買うでしょう。

 

さむいさむい、積もった雪の白と、まっ暗な山の夜の黒とで構成された、暗示的な場面。 これから、ここで、何が起こるんだろう……。 そして、ぼくは観客じゃなくて、いつの間にか一人で舞台に立っていて、みんなが見ている。 どうしよう……。風が吹いてきた……。膝が、がくがくしてきた……。どうしよう……。 ぼくは裸になってみた。そして、アカペラで歌いながら、ラジオ体操をやってみた。イチカバチカのアドリブだった。 どうしよう……。次は何をやろう……。

 

ぼくは「基礎体温」について調べることにした。文献調査は得意なのだ。 一般的な事は、家から百メートルの市立図書館でじゅうぶんだ。 思いついて一〇分後には、すでに六冊の本を自習室の机の上につんでいた。そして三〇分後には、だいたいの知識を得ていた。あと四〇分くらいかければ、素人と専門家の中間くらいになれる自信があったが、だいたいのところで、やめておいた。なんかムナシイから。

基礎体温は、朝、動く前にベッドの中で、婦人体温計を舌の下にくわえて計らなければならないのに、Kyさんはいつも、顔を洗った後で、テレビを見ながら、普通の体温計で、脇の下で計っている。 完全に間違ってる。 そして、ぼくの方が、あっけなく「基礎体温」について詳しくなった。

ぼくはドキッとした。 読書ノートを読み返すと、やっぱりそうだった。妊娠の典型的な症状だった。便秘、頻尿、乳房緊張痛、悪心、腹部膨満、嘔吐、これらの症状が、Kyさんに表れはじめた。 たぶん、三十七度近くの高温の日が、十四から二十一日以上つづいているはずだ。 Kyさんは気づいているのだろうか? たぶん気づいてないだろう。どうしよう……。妊娠判定薬……。どうにかして……

 

「こ、こ、ここは……」 「何人かの、ずば抜けた哲学者たちが創った」 「抽象世界だ」

急に、予定されていたかのように、目が覚めて、時計を見ると、二時十二分だった(今は三時三分ジャストだ)。 誰もいなくなっていたのだ。そして、知り合いが大勢あつまっていたのだ。 真っ暗な、きりがない、いつか行ったことがある、という設定の、野外劇場の廃墟のような空間に、大勢のヒト型の人達があつまっていた。 全員、ぼくの知っている人達だった。どこで知り合ったのかは忘れたが、その時は、全員の名前を言うことができた。 真っ暗だったけど、赤外線暗視カメラのような効果で、灰色の光の中に、くっきりと見ることができた。 ぼくだけ色が付いていて、他の全員はモノクロだった。 レーザー光線的なもので、ぼくと血の繋がった人達を連結して遊んだ後で、隣の人に何か話しかけた。 名前を忘れた気がしたので、話しをそらして、時計を見るふりをした。 「そろそろ、子供が帰ってくる時間なんで……」と、別れの決まり文句で、別れ、人混みをかき分けて、右斜め後ろに向かった。

ぼくの子供の名前がわからない。ぜんぜんイメージできない。五分前に拾った電話帳をめくって、ピッタリな名前を見つけようとしたのだけれど、どれも、ぜんぜん違うと感じる。 ぼくの子供はどこにいるのだろう? この不思議な群衆の中に、どこかに、いるはずなのだが……。

子供を見つけることはできなかったが、孫を見つけることができた。とても可愛い、おもちゃのような孫だった。 「おじいちゃん、なんでここにいるの?」 「あぁ、ちょっと近くまで来たから……」 「盲腸は大丈夫だった?」 「うん。腹膜炎で危なかったけど、なんとか成功したみたい」 「じゃあ、またこんどね」 「うん。君は、あのとき救急車で運ばれて来た子だね。だいじょうぶだったんだね」 「さあね」

孫のカルテを覗いてみると、ドイツ語で名前が書いてあった。

やがて、知り合いの群衆の外側を、知らない人でできた群衆が取り囲んだ。 知り合いの群衆が空気になって、ドーナツのように穴が開いた。 巨大な何かが、ドーナツを食べようとしている。

ぼくの子供の名前が知りたい……

 

自分のクローンが生まれた時の心理状態は、それほど異常なものではありませんでした。従来の出産で生まれた子供に伴う心理と、さほど変わらないのではないかと思います。 出生届けは通常の出産と同じようにできますし、将来、義務教育も普通に受けられるとのことですので、彼女が生きていく環境は、とりあえずは問題ないのだと思います。 もちろん今の段階では、あらゆるレベルのマスコミが関心を寄せるでしょう。将来、学校でのイジメや社会的差別も予想されます。ですから、彼女がクローンであることは、ごく限られた人にしか教えません。彼女自身にも教えないほうが良いでしょう。 それでも、彼女が成人した時には、彼女がクローンであることを知らせなければなりません。……その時の心理状態は、よくドラマなどである、幼いころに養子として迎えて実の子として育てた場合、と似ていると思います。「これからも私の子供であることには変わりないのよ」というふうに、たぶん言うのだと思います。そのころまでには、クローンとしての出生が社会的に認知されていればよいのですが。……楽観視はしていません。まだ二〇年先のことですから、じっくり考えたいと思っています。 それから、物理的に自分とまったく同じ人間が、もう一人いることに対する心理としましては、双子や三つ子の人達のことを考えると、なんとか整理できる気がしています。 双子の一方が凶悪事件を起こしたときに、もう一方が社会的責任を取る必要がないように、私も彼女に対して責任を負う必要はありません。もちろん、彼女が事件を起こせば、苦しんだり悲しんだりするでしょうが、それは親や兄弟が肉親の不幸にたいして抱く感情と同じだと思うのです。ただ、それだけのことです。 私と彼女は別々の名前を持った、別々の人間だというだけのことです。双子や三つ子の人達が、そうであるように。 土から人間を創ったという中世の錬金術師たちのように、なにか魔術的な方法で人間を創りだすように考えがちだと思うのですが、私の未受精卵から核を取った後に、同じ私の体細胞の核を移植するという操作は、それほど神秘的なことだとは、私には感じられません。 癌や脳腫瘍の治療に比べれば、原理的には単純な操作だと思いますし、中絶手術や人工授精が受け入れられていることからしても、けっして異常なことだとは思いません。 もちろん、まったく危惧が無いというわけではありません。現在の社会制度は、クローンを想定していないわけですから、いたるところで予想できないような障害にぶつかるでしょう。 でも、それだけのことです。彼女に問題があるとしたら、それはすべて、まだ未整備な社会制度に関することだと思います。 一つ一つ、クリアーしていくだけです。

 

想像妊娠で産まれた、見える、女の子。 名前は「衣風」になるだろう(イフ→if≠Eve)。 そして入れ替わりに、見えなくなった、Kyさん(子宮体側面を触診します)。

旧約聖書に伝える人類最初の女)衣風は美しい少女に成長した。(生理用品を、形から変えました。それは、凸形フィット構造の、超吸収パッド。体に隙間をつくらずに、真ん中吸収。スリムでも安心。センターイン。フィットスリム。新発売。資生堂)携帯電話を持って、ベランダの近くに浮かんでいる。 暗くなる前に帰って来るんでしょ? とぼくはたずねた。

(時刻は二十五時二十五分をまわりました)あるいは、衣風はKyさんなのだ。生まれ変わりではなくて、もっと純粋な芸術的な出来事で、そして、Kyさんは衣風になったのだ(しばらくしたら、元に戻そう)。

(恥骨結合全後面も触診します)渋谷女子高を卒業して、東京女子大に入学した衣風に、マツモトキヨシという彼氏ができた。 (膣分泌液pHは、7.21です)マツモトキヨシは、いいやつだった。今どきの、人あたりのいい男の子だ。若いのにリッチで、いつも黄色い服を着ていた。

(尿中プレグナンジオールも測定します)やがて、衣風とマツモトキヨシは、別姓のまま結婚した。なんとなく別姓にした(カッコイイから?)。 お父さん、長い間お世話になりました。さて、ここで最後の問題です。と、テレビゲームの新婦が言った。さすがのぼくも、それには、かなり怒った。

 

夏なのに、表参道に、枯葉がつもっています。 日焼けしたマッチ売りの少女が、タンクトップで、タケフジのマッチを配っています。 「マッチはいかがですかぁ?」 ぼくはマッチを受け取って、代わりに、ニコルのライターをかごに入れました。高くはないけど、とても気に入っていたやつです。 「彼女は、何に凍えて死ぬのだろう?」と、ふと考えました。

青山通りにさしかかると、りんごの香りがしてきました。 エレガントな作業服を着た紳士が、青空の下、りんごの収穫で汗を流しています。 「おひとつ、いかがですか?」と言って、りんごを三つさしだしました。 ぼくは、お礼を言って、りんごを二つ受けとりました。そして、大きい方のりんごをかじりました。すばらしい、りんごです。おばあちゃんが作ってくれた、自家製りんごジュースの味です。 「そうだ! もう一つは、あの子にあげることにしよう!」と、ぼくは思いました。

 

徹夜あけの朝に『めざましテレビ』をみていると、トイレの窓から新発売の生理用ナプキンが入ってきた。 「おぉ、ひさしぶり、どうしたの?」とぼくは言った。半年以上も会っていない女の子が朝の七時にやって来たというのに、ぼくは不思議と冷静だった。 「なんだか、急に会いたくなったの」と彼女は言った。 「最近、売れてるみたいだね。……忙しんでしょ?」 「うん。そうなんだけど……」 「とりあえずここに座れば?」とボクはデッキチェアーをひろげて彼女にすすめた。「コーヒーと紅茶とココアとミルクがあるけど、何がいい?」 「あったかいココアが飲みたい」 彼女の身なりは洗練されていた。新しさ、エレガントさ、さわやかさ、そして機能性。現代の若い女性たちがめざす、ある一つの完成されたスタイルだった。 「今日、仕事はないの?」とぼくはたずねた。 「仕事、やめることにしたの」と彼女は言った。「本当は今日も、CMの撮影があるんだけど、行きたくないの。もうやめにしたいの。もとに戻りたいの。」 「もとに戻るってどういうこと?」

ぼくは迷っていた。必死になって考えようとするんだけど、その少しの時間の間に何度も堂々巡りをしていた。 彼女は魅力的だ。テレビの電波を介して見るようになって、一段と高い領域の魅力を感じていた。 でも、今のぼくには、集中してやらなければならないことがたくさんある。もう少しで見えてきそうなモノがいくつも散乱していて、一つ見つけることができれば全部手に入りそうな気がしていて、ぼくにとって今は、とても重要で不安定な時なのだ。 そして、彼女のように、社会から特異なイメージを刻印されている女の子と関わるのは、今のぼくにとって、どう考えても致命的だ。

でも、彼女は魅力的だった。

「今日、ずっとここに居ていい?」 「いいけど、今日これから、ちょっと大事な用があるんだ……。夜まで戻れないかもしれないから、一応、カギわたしとく」 「いってらっしゃい」

ぼくは、ドトールブレンドコーヒーを飲みながら迷っていた。とても集中して、何度も何度も、堂々巡りをしていた。五時ごろに帰って、もしまだ彼女がいたら……もしいたら、その時は……どうしよう……。

五時二〇分に部屋に帰ると、彼女はいなかった。ココアのカップは洗ってあった。 書き置きを探してみたけど、どこにも無かった。

 

イカンの声が、夜のシブヤにこだまする。七〇年代の少女達が、ローラーブレードで逃げまどう。 「青山墓地で落ち合おう。花火を買って、ジェイソンごっこしよう」 スパイラルが炎上し、新しい時代が始まるだろう。記憶を乱反射させ、やつらの様式を攪乱しよう。 午前六時に集合だ! センター街でラジオ・タイソウしよう! 今朝のDJは誰だ? トランス状態でタイソウしよう! 時速三〇キロまで加速する。酔っぱらいを蹴っ飛ばし、シロキヤの混乱に紛れ込む。 ビートルズがスパークする。ビートルズが、「勉強しろ!」って言ってる。 クールでホットでヒップな、センター試験を受けよう! メロン風味のイチゴシェイク。

これで、何もかも分かっただろ?

 

見覚えのある生理用ナプキンだった。とある街のドラッグストアーの店頭で、ワゴンの中に無造作に放り込まれ、九〇パーセント・オフで売られていた。 ぼくは、一度その前を通り過ぎ、一〇メートルくらい行ってから、引き返し、通りすがりに、彼女(=生理用ナプキン)を、さりげなく手に取った。 そして、コートのポケットに、強引に、詰め込んだ。

万引したのは初めてだった。この歳になって万引をするとは思ってもみなかった。でも、やるしかなかったんだ。生理用ナプキンをレジに持っていって買うなんて、ぜったい出来ない。しかも、九〇パーセント・オフのワゴンセールのやつだし……。 やるしかなかったんだ……。

ぼくは、ゆっくりとした動作で、駅の方へ急いだ。途中で、あやしい画廊の客引きに声をかけられて、ドキッとしたけど、それ以外は何も起こらなかった。 コートの中の掌は汗で湿っていた。パッケージの薄いビニールを濡れた手でさわると、なんか気持ち悪い感触だった。

「京都まで、自由席で二枚ください」とぼくは言った。 「ラヴィーヌ父さん……」と彼女(=生理用ナプキン=衣風)は言った……。 ぼくは、右手をコートの右ポケットに入れて、彼女のパッケージを、片手で、ていねいに開けた。そして、キップを彼女の中に、そっと入れてやった。 新幹線に乗るのは久しぶりだった。席は空いていたけど、座らずに、乗降口の空間に立ったまま、外を見ていた。でも、意識はずっとコートの右ポケットの中の、右手の感触に集中していた。

「ラヴィーヌ父さん……。マツモトキヨシは、ひどいヤツだったの……。わたし、ひどい目に合わされて……。いろいろさせられて。そして、最後には、九〇パーセント・オフで、店頭で……。いろいろ、いろいろ、ひどい目に合わされて……」と、名古屋を過ぎて五分くらいしてから、それまでの二時間ちかくの沈黙をやぶって、彼女は言った。

「……京都駅が新しくなったって知ってた? 原広司っていう人が設計した、すごいデザインなんだけど、たぶんビックリすると思うよ……。あと、普通の観光客が行かない、カッコイイお寺とか茶室とか、けっこう知ってるから、いっぱいまわろうよ……」と、ぼくは、少し明るめに、慎重に言ってみた。 「うん、いいねえ」と彼女は、はじめて微笑んだ。そして、その会話をキッカケにして、ぼくらは親密な感じになった。昔のように、絶妙なコンビネーションで、ジョークを言い合った。もう外見が生理用ナプキンであることは気にならない。昔のように、血の繋がらない微妙な親子に戻ったのだ。 ぼくは、「やれやれ」と思った。そして、「ほとぼりが冷めるまで、東京には戻れないな」と思った。

 

目を覚ますと、ぼくは『罪と罰』のラスコーリニコフになっていた。部屋の様子もパジャマも、手も足も眼鏡も、外見はぜんぶ元のままだったが、本質的な部分でぼくはラスコーリニコフそのものだった。直感的に、預言者のように、ぼくはすべてを理解した。ぼくはその決定的な事実に呆然とし、天井の模様をじっと見つめ続けた。

『寒気がする。ゾクゾクする。風邪をひいたのだろうか? 精神的なものだ。頭が痛い。……証拠は無いはずだ。偶然が三つ重なれば完全犯罪は成立すると誰かがテレビで言っていた。偶然? どういうレベルの事を言っているのだろう? あした紀国屋まで行って、専門書を四、五冊買ってこよう。朝いちで。九時半に出て、開店と同時に入ろう。……ああ、イライラする。思考が圧迫されている。精神の異常はこういう時に起こるのではないだろうか? ……郵便局のキャッシュサービスが始まるのは確か八時だ。とりあえず全部おろそう。あやしまれるだろうか? 財布には六千円くらいしかない。本を買ったら、ほとんど無くなる。電車賃もかかるし。二万円くらいなら別に、あやしまれることはないだろう。……下手に動かないほうがいい。警察に全部バレてると想定して行動すべきだ。警察はどこまで調べているのだろうか? 日本で起こった犯罪の内、いったい何パーセントが検挙されているのだろうか? 実は、ほとんどが未解決のままになっているということはないだろうか? 犯人が捕まるのがめずらしいから、ちょっとした事件でもすぐにテレビで報道するのではないだろうか? 図書館か市役所に犯罪白書のようなものがあるはずだ。調べてみよう。専門書より、それのほうが先だ。……腹がムカムカしてきた。気持ち悪い。小さいころ車の中で酔った時の感じだ。そういえば大きくなってからは、いつのまにか酔わなくなった。いつのころからだろうか。どうでもいい。吐き気がする。精神的なものだ。ビデオ、ラジオ、CD、本…、何をしてもダメだろう。散歩に往こうか。じっとしていよう。衣風……、Kyさん……、みんなどうしてるだろうか?』

 

その黄金の建築物は、一階の寝殿造、二階の武家造、三階の唐様式仏間からなる、三階建ての楼閣であった。 二人は、京都でのはじめの四日間を、その偉大な建築物で過ごすことになった。

二月二日より先着二〇名様に限り、三泊四日で百万円(通常一泊二日で五〇万円)、今世紀最後の国宝を四日間ひとりじめ!

 

新型の不良少女が、ミサイルを発射してきた。 スイス製の複雑なヤツだ。 二年前のグラマーな不良は、今とっても活躍している。 「忙しいの好きなんで、楽しく頑張ってます」 関係ないけど。

ぼくはと言うと、それなりな軍人だ。 海軍から防衛軍に昇進して、「忙しいの嫌いなんで、それなりに頑張ってます」

 

氷の少女が、左上から誘惑する。高速で、ウインクする。 右下から、騎兵隊が流れて行く。ぼくはその中に、まぎれ込み、夜明けを待った。 いつの間にか真ん中にいて、ちょっかいを出すのは、だれだ? 絶妙なタイミングでカットインした。次の瞬間には、ゴール下に浮かんでいた。巨大な女達をかわして、希薄で重要な時間が生まれた。 それは天使ではない! ボクを誘うのは誰だ? 何度もリピートして解き明かす。原始的にみえるが、それは罠だ。 ぼくは、よまれきっている。 そしてまた、あの子がやって来る。

 

叔父(父の兄)の葬式の時、ぼくはKyさんの死を想像していた。 鼻に綿が詰められ、化粧で石膏のようになった叔父の顔を見ながら、なぜかぼくは、彼女の死体を思い浮かべていた。 彼女が病気しているというわけでもなく、ぼくが彼女に死んでもらいたいと思っているわけでもないのに、心理学的にはどう説明されるのだろうかと訝りながら、ぼくは思い浮かべていた。

ぼくらはみんなで、レールの上に載った彼女の棺を火葬室の中に押し込んだ。 係りの人が赤い丸いボタンを押すと、エレベーターの扉とまったく同じように、その場の雰囲気にそぐわない日常的な感じで、扉が閉まった。

「彼女は、今、中で焼かれている。とても美しく焼かれている。」

ドライアイスが解けるように、彼女は白い気体に変換された。そして、白い気体は煙突から外に出て、風に流されながら、さらに上に登り続けた。

それから先、彼女がどうなったかは分からない。 どこかに、死後の気体がたどり着く場所がるとしたら、彼女はそこに、無事にたどり着いただろうか? もしかしたら、たどり着けずに、ふわふわと大気中をさまよっているのかもしれない。 それとも 大気中に拡散されて事実上この世から消滅してしまったのだろうか?。

彼女は、今、何をしているのだろうか?

 

美しい少女に 黄色いウイルスが 溶け込んだ時

白い消防車が のんびりと 公園通りを走っていた

オレンジの下着をつけた奥さんが ぼくに 話しかけた時

美しい少女は むらさきの温水プールで 眠りについた

そして ぼくは最後に みどりの机に向かって 一篇の 穏やかな詩をかいた……