文体練習

片根伊六(かたねいろく)による、詩、物語、小説、エッセイなどを掲載しています。

谷川俊太郎さんの詩から学ぶ 効果的な書き方 (4) なんでもアリ

            <strong>だがなんでもないものは、他のなんでもないものと区別されると、そのなんでもなさを決定的に失う。<!--more-->なんでもないものを、一個の際限のない全体としてとらえることは、それを多様で微細な部分としてとらえることと矛盾しないが、なんでもな(以下抹消)

――――筆者はなんでもないものを、なんでもなく述べることができない。筆者はなんでもないものを、常に何かであるかのうように語ってしまう。その寸法を計り、その用不要を弁じ、その存在を主張し、その質感を表現することは、なんでもないものについての迷妄を増すに過ぎない。なんでもないものを定義できぬ理由が、言語の構造そのものにあるのか、或いはこの文体にあるのか、はたまた筆者の知力の欠陥にあるのかを判断する自由は、読者の側にある。

詩集『続・谷川俊太郎詩集』谷川俊太郎著p.45より

文体は、哲学か言語学かなんかの論文のようですが、ちょっと違和感があります。

論文だったら、なんらかの結論がなければなりませんが、この文章の最後は、「以下抹消」と書かれて、単語の途中で終わっています。 また、筆者の後書きのようなものでも、「判断するのは、読者の側にある」などと言っています。 完全に、論文ではありません。

コラムでもないし、日記でもないし、雑誌かなんかの記事でもありません。

では、何なのででしょう?

詩集に収められていることですし、やっぱり「詩」としか言いようありません。

詩は論理的に矛盾することを書いてもOKなようです。結論もあえて提示しなくても良いようです。

なんでもアリですね。

論文のような文体で書いても良いし、ひらがなだけで絵本のように書いてもいいし、小説のように書いても、劇の台本のように書いても、取扱説明書のように書いても...すべてなんでもOKみたいです。

読んで面白ければなんでもアリということなのだと思います。

ただし、「自由には責任がともなう」と言われるように、その文章が面白くなければ、悲惨なことになります。

論文でも、小説でもないし、この文章はなんの意図があって書かれているのか、まったく意図不明になってしまいます。 どこにも居場所がなくなります。

上記の詩は、とても面白いと思ったから、わざわざ引用させてもらったのですが、膨大な数がある谷川さんの詩の中には、正直言って、意図不明だと思うものもあります。

谷川さんくらいネームバリューがあると、裸の王様状態の時もあるのではないでしょうか?

谷川さんが書いているのだから、きっと自分には理解できない深い意図があるに違いない、ということで、誰も「この詩は面白くない」と言えないのではないでしょうか?

でも、新しいものを追求している人にとっては、そこは避けては通れないところなのだと思います。

谷川俊太郎さんの詩から学ぶ 効果的な書き方 (3)」でも書いた通り、一か八かの賭けのようなものなのだと思います。 後は、賭けの勝率しだいかと。