<strong>かたすみに
そのおとこは たっている てらてらと あかびかりする ぶかぶかのがいとう そのしたに かさねられた なんまいものしゃつ やぶれて くちをあけた かたちんばのくつ ぼうぼうにのびた かみのけのうえの よごれた とざんぼう てに わけのわからないものを いっぱいにつめこんだ かみぶくろをさげ
街角で見かけた見知らぬ男性(そのおとこ)を、ひたすら観察しています。 比喩など使わずに、たんたんと見たままの様子がひらがなで書かれています。 それから、「そのおとこ」を見ながら様々なことを連想していきます。 「そのおとこ」が赤ん坊だったころのこと、「そのおとこ」の横を通り過ぎる人々のこと、「そのおとこ」がふんでいる地球のこと、宇宙のこと……。 そして、最後のパートは、次のようにしめくくられます。
かたすみに おとこが たっている まるで くらい あなのように
この最後のパートを読んだ時に、背筋がぞくっとしました。
この詩には「そのおとこ」に対する同情やあわれみや、社会問題に対するいきどおりなどは感じられません。「そのおとこ」を細部まで観察して描写する冷静な言葉は、読み方によっては冷酷に感じられます。生体を解剖する医学者のように、対象に何の感情もいだかず、もくもくと作業をすすめているような印象です。
詩集『続・谷川俊太郎詩集』の裏表紙に、寺山修司さんが次ようなことばを寄せています。
昔は、世界で一番やさしい男は谷川俊太郎だと思っていたけれど、今はちょうど逆に水のように冷たいというか、世界のいつも外側で、ガラスの向こうをしか通らないハメルンの笛吹き男というか、こちらに笛の音が聞こえなくなってしまうということがあります。 寺山修司さんが言っている「冷たい」というのは、この医学者のような視線のこと言っているのではないでしょうか? 最後のパートのような「ぞくっとするイメージ」をつかんで、それをもって詩を完成させることだけが唯一の目的だとしたら、冷酷にならざるを得ないのだと思います。
「ぞくっとするイメージ」をなるべく純粋に伝えるためには、同情やあわれみといった関係のない要素は排除する必要があるからです。
谷川さんが家族や親友について書いたものの中にも、この医学者の視線が向けられている事があります。そのような詩を読むと、ぞくっとすると同時に、ちょっと恐くなることがあります。
ただ、私たちが書く時に注意したいのは、冷酷さ自体が目的にならないようにする、ということです。真理を追求するために冷酷になってしまうのと、冷酷な描写を書いて衝撃的な作品をつくることが目的になっているのとは違うと思うのです。
医学者のメスと猟奇殺人者のナイフの違いのように。
書いているうちに気分が過剰になっていないか、文章が無駄に過激になっていないか、無駄に誤解をまねくような表現になっていないか、チェックした方が良いと思います。