片根伊六 帳

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 『サピエンス全史』「ベルトコンベアー上の命」について

             『サピエンス全史』の中の「ベルトコンベアー上の命」と題された箇所について考えてみたい。

 人間が動物や植物の命を大切にする一方で、その命を食べたり生活の道具として利用したりするという矛盾について、誰しも多かれ少なかれ考えたことがあると思う。ペットの治療費や葬祭費に数万円~数十万円かける一方で、スーパーの精肉コーナーの赤やピンクのおびただしい数の肉片を百グラム数百円で買って食べるのは矛盾しているのではないか……と。  誰しも子供のころに一度は疑問に思いながら、深く追求することなく流してきたことだと思う。  それを著者のハラリは、芸術家的なアイロニー(皮肉)をきかせた高揚感のある文体で赤裸裸に書いている。実名で、顔をさらして。野生の子供のような無邪気さで。

動植物さえもが機械化された。ホモ・サピエンスが人間至上主義の宗教によって神のような地位に祭り上げられたのと同じころ、家畜も痛みや苦しみを感じる生き物と見なされることがなくなり、代わりに機械として扱われるに至った。今日はこうした動物たちは、工場のような施設で大量生産されることが多い。その身体は産業の必要性に応じて形作られる。彼らは巨大な製造ラインの歯車として一生を送り、その生存期間の長さと質は、企業の損益によって決まる。業界は、動物たちを生かしておき、そこそこ健康で良い栄養状態に保つ配慮をするときにさえ、彼らの社会的欲求や心理的欲求には本来関心を持たない(ただし、それが生産に直接影響するときは話が別だ)。『サピエンス全史(下)』pp..172-173

 研究者としての体系的な分析能力と、芸術家的なアイロニーのセンスをあわせ持つと、小説や詩などでは及ばない、強い力をを持つ文章になるのだと感じた。

 ところで私は、宗教家が語る「命を頂く」といった言葉にぞっとする。宗教家は、牛肉や魚肉や米や野菜を食べる時に、「その命に感謝して、残さずに全部頂きなさい」と言う。  これは一見、大切な命を食べるという矛盾を解消しているように思えるが、論理的に進めていくと、何の解決にもなっていないことに気づく。  むしろ、グロテスクな方向に向かってしまう。  牛肉のパッケージに、生前の牛の愛くるしい写真が印刷されていたら、焼肉にして食べる気がするだろうか?  私としては、なるべく命として意識せずに、食品として接したいと思う。(子供の時に、自分で釣った魚をどうしても食べることが出来なかった。今でも、知人が趣味で釣った魚をもらって食べるのには抵抗がある。)

 さらに進めて、牛も人間も等しく「大切な命」だとすると、牛の肉も人間の肉も同じだということになる。  ということは、引用したハラリの文章の中の「家畜」の部分を「人間」におきかえることも可能だということになる。

人間も痛みや苦しみを感じる生き物と見なされることがなくなり、代わりに機械として扱われるに至った。今日はこうした人間たちは、工場のような施設で大量生産されることが多い。その身体は産業の必要性に応じて形作られる。彼らは巨大な製造ラインの歯車として一生を送り、その生存期間の長さと質は、企業の損益によって決まる。

 牛肉を大切な命と感じつつ食べるという行為は、「大切な命であっても必要な時には犠牲にすることができる」ようになる訓練になっているかもしれない。

 歴史上のグロテスクな事件の数々は過去の野蛮な人間たちによるものであって、現代の健康で文化的な暮らしをおくる我々には関係が無い……とは言いきれない。矛盾はまだ解消されていないのだから。

 「大切な命」を犠牲にせざるを得ない人間の数は増え続けている。なにか根本的な解決案は無いのだろうか?

 『銀河鉄道999』のように、機械の体を手に要れることができれば、問題は解決するのだろうか? 太陽エネルギーで生きていけることができるなら、「大切な命」を犠牲にしなくてよくなる。

 もっと分業が進めば解消するのだろうか? 家畜を育てる人、屠殺する人、卸売する人、加工して小売する人、料理する人…といった分業をもっと進めていけば、「大切な命」から遠ざかって、矛盾を意識しなくて済むようになるのだろうか? ピタゴラスイッチのように、過程がもっと複雑になれば……。

 もっと根本的に、宗教的・道徳的概念を改良する必要があるのだろうか? ハラリのような人が家畜産業の非人道的な行為を暴露したとしても、完璧に論破できる宗教的・道徳的概念が欲しい。ハラリが「毎年そのうち約五〇〇億が殺される」と言ったとしても、「約五〇〇億の命の重みを受け止めて、それに値する供養を十分にしている」と言い返せるような。