片根伊六 帳

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お釈迦様の手のひらの外に出れるか?

            僕は文体に乗っ取られているんじゃないか?

と、さっきふと思いついた。 この文体もそうだ。 文体に、僕の気分も考えの流れも支配されているんじゃないか? この文体はどこから来たのか? これは僕の文体か? この文を誰かが読んで理解できるということは、すでにこの文体は少なくとも日本人の言葉の体系の中に含まれていて、共有されているということだ。 昔見たテレビの孫悟空の話で、孫悟空がどこまで飛んで行っても、お釈迦様の手のひらから外に出ることが出来ないという場面を、たまに思い出す。 そんな感じだ。 文で書く以上、文体の外に、僕は出ることが出来ないのだ。 昔の前衛的な人たちがやったように、錯乱すれば、この文体の外に出れるのかもしれないが、それは恐いし、そうやって文体の外に出て、誰からも理解されない文が出来たからといって、それに価値があるとは、僕には思えない。 今、ちょっと酔っぱらっているのだけれど、こうやって書いた文体も、たいして錯乱してないし、価値があるとも思えない。 気分は多少は良いけど……。

さっきNHKでやってたスピノザの話は、ちょと参考になるかもしれない。 すべての感情は、「欲望」「悲しみ」「喜び」の3要素に分解できるらしい。そして、自分の感情を素因数分解にして理解すれば、客観的に、ちょっと冷静になれるというようなことを言っていたのだと思う。 同じように、文体の感情のようなものを分析できれば、文体に流されないで、ある程度客観的に、意図をもった文を書けるのかもしれない。

この文章は、 誰かを悲しい気持ちにさせようとしているのか? 誰かを感動させようとしているのか? 誰かを笑かそうとしているのか? 誰かを説得しようとしているのか? 恐がらせようとしているのか? 共感してもらいたいのか? 頭が良いと思ってもらいたいのか? 独創的と思ってもらいたいのか? 同情してもらいたいのか? 可愛いと思ってもらいたのか?

これらを、もっとシンプルに、スピノザみたいに、3つくらいに切れ味よくやれたらスッキリするんだろうけど、そこまでに気力は今はない。 ごめんなさい。 おやすみなさい。