創作の本質は、この〈転換〉にあるんですよ。どんなに長い小説であろうと、この〈転換〉の連続だと言っていい。つまり〈転換〉をどう描くかが、うまい小説になるかどうかのいちばん肝心なところで、芥川はそれを非常に素朴に忠実に自分の作品の中で使っているんです。
つまり最初にいいとか悪いとかいうことをやや誇張して考えて、途中でどんでん返しが起こるように仕組むというのが、文学作品のいちばんの根源であり、創作方法のはじめの一歩でもある。(中略)文学作品というのは、その〈転換〉のうまさ、巧みさに注目して読むと読みやすいんです。ベストセラーだけど、読んでみるとあんまりいい作品じゃないやという時には、その〈転換〉が浅かったりするものです。感心はするけど、あまりに誰でもが感心しそうなことでやっていると、これは誰もが平均的に思うことだな、ありがちな展開だなってなっちゃう。いい作品は、その〈転換〉のしかたが非常に自然で、わざとらしくなく、読み手の実感もひとりでに流れていく感じがする。
『15歳の寺子屋 ひとり』吉本隆明(著)pp..54-55
この〈転換〉のお手本として、芥川龍之介の「蜜柑」という短い作品を上げている。青空文庫で読んでみて、確かに! と思った。あらすじを知っているにもかかわず、感動して、ちょっと涙ぐんでしまった。
〈転換〉というと、起承転結の〈転〉のようなものかと思っていたが、ちょっと違うようだ。
戦争や天災の大惨事を際立たせるためには、その前にあった平和な日々が、最高に幸せいっぱいに描かれていなければならない。
成功物語なら、始めは失敗の連続でなければならない。まったくどうしょうもない、救いようのない様子を、読者が同情してあわれむくらいに書かなければならない。
そういったことのようだ。
確かのその通りだと思う。
でも、〈転換〉が文学作品の「いちばん肝心なところ」と言い切っているところがすごい。例外は無いのだろうか? 〈転換〉が無くても素晴らしい作品というのは、ありえないのだろうか?
「文学とは何か」という大問題を、簡単な言葉でわかりやすく、あっさり言い切ってしまっていることに驚く。
吉本隆明さんは、議論の余地のないシンプルな真理を、「なんでみんなこんな簡単で明らかなことに気づかないのだろう?」と不思議がりながら、なんでもない当たり前のことのように語る。
この自信と確信がすごい。