文体練習

片根伊六(かたねいろく)による、詩、物語、小説、エッセイなどを掲載しています。

サリンジャーさんへ

あなたの小説を読ませて頂きました。『ライ麦畑』とか「シーモア」が出てくるのとか、日本語で読めるものはだいたい読みました。全体的に、すごく好きで、仕事やなんかの合い間や、寝る前なんかに時間がつくれて、これから読めるぞと思うと、胸がキュンとする感じがして。胸がキュンなんて言うとありきたりですが、本当にそんな感じなんです。

あなたの主人公たちは、インテリだったり、裕福なお坊ちゃんだったり、天才少年だったったりしますが、不思議と嫌味な感じがしません。客観的に見れば、甘えていたり、世間知らずだったり、自己中心的だったりして、実際に自分の知り合いに居たとしたら、あんまり親しくならずに距離を取るだろうと思います。なのに、読んでいる間は、むしろ応援したくなってしまう。その応援したくなるというのが、ポイントかもしれません。この子、また死んでしまうんじゃないだろうか? こんな無茶ばかりやって、そんな言わなくていい事ばかり言って、えっなんでこんなことになっちゃうの……。彼らには、ほんの一人か二人の理解者がいて、それが物語の救いになってますね。完璧な理解者ではないけれど、少なくともシーモアやホールデンに好意を持って心配している人がいます。私もその理解者たちに共感します。読者はそういう立ち位置にはまるよう仕組まれているのでしょうか?

あなたは、書き始める前か、書き始めて早い段階かで、プロットのようなものを想定していたのでしょうか? 最後にシーモアは死ぬことにしようとか、ホールデンは最後にフィービーと過ごして家に帰ることにしようとか。『ライ麦畑』の後半の方で、話が横道にそれることに関する考察がありましたね。ちょっと長くなりますが、探して引用させてもらいますね。大事なところだと思うので。

 

「リチャード・キンセラですよ、はじめはそういうことを話そうとしたんです----それから急に、おふくろさんがおじさんからもらった手紙のことを言い出したんですよ。そのおじさんが四十二のときに小児麻痺になったとか、副木をあててる格好を見られたくないから、誰にも病院へ見舞いに来させなかったとかいうことをですね。そりゃ農場とはあまり関係がない----それは僕もみとめます----しかし、いい話だったんです。誰でもおじさんの話をする場合はいいもんですね。ことに、父親の農場のことを話し始めておいてから、急に、おじさんのことにもっと興味をひかれて行くっていうのは、いいですよ。興奮してしゃべってる奴に向かって、《脱線!》ってどなってばかりいたりするのが、僕には不潔に思えるんです……でもわかりません」p.286(私が持っている本の)

「そうですね----そうかもしれない。たぶん、そうでしょう。たぶん、農場ではなく、おじさんのほうを題目に取り上げるべきだったんでしょう、それが一番興味のあることだったらですね。でも、僕が言いたいのはですね、たいていの場合は、たいして興味のないようなことを話しだしてみて、はじめて、何に一番興味があるかがわかるってことなんです。これはもう、どうしてもそうなっちゃうことがときどきありますよね。だから、相手の言ってることが、少なくとも、おもしろくはあるし、相手がすっかり興奮して話してるんだとしたら、それはそのまま話さしてやるほうがほんとうだと思うんですよ。僕は興奮して話している人の話って好きなんです。感じがいいですね。」p.287

 

あなたの小説にもあてはまりますね。誰かに説教をされている時に、別のことを考えてて、それが魅力的な話だったりしますよね。それがストーリーの大きな流れに関係なくて、そこだけで完結しているものもありますが、大きな流れの大事な伏線になっていることもありますよね。そこがあなたのスゴイところだと思います。とってつけたようでなく自然な感じがするのです。いっけん不自然に唐突に出てきたようなんですけど、その話が魅力的なので、そっちに自然と引き込まれいって、いつの間にか大きな流れにのっかってしまっているようなんです。さっき質問した意図は、このことに関してなのです。ストーリーの大きな流れは当初からあったのか、それとも、書きだしてはじめて、分かってきたものなのか、ということです。

私の推測では、後者だと思ってます。つまり、書いているうちにストーリーが出来てくるといった感じなんだと思いますが、どうでしょうか?

「感性のおもむくまま」と言うと、俗っぽくて、あなたの作品の魅力に似つかわしくない感じがしますが、あえて、分析のためにそう定義させてもらいます。

「感性におもむくまま」タイプの人は、ちょっとだけ考えると、次々に作品が湯水のごとく作れそうですが、もうちょっと考えてみると、逆に寡作(かさく:作品を少ししか作らないこと)になってしまう人もいるのかなと思います。特に、あなたのように鋭い批評眼をもっていて、自分のことをも棚上げせずに直視しそうな人は。

「感性のおもむくまま」に書いていると、作者は無意識に自分の気持ちのよい方向に向いていくものだと思うのです。作者は自分の無意識に集中して、その奥深くにうもれている美を、いかにしてすくい取るか、いかにして造形化するか、いかにして洗練させるかといったことに注力していると思うのです。

だから、洗練されればされるほど、一つのシンプルな美にたどり着いてしまうと思うのです。

そのシンプルな究極な美を見つけてしまった後、作者は何をすればいいのでしょう? 見なかったことにしてまだ探求の途中のようなふりをして書き続けるのが一つの手でしょう。もう一つ、あなたがとったと思われる手は、もう書くことを止めてしまうということなのでしょう。