文体練習

片根伊六(かたねいろく)による、詩、物語、小説、エッセイなどを掲載しています。

サリンジャーに没入

 サリンジャーに没入にているときに、チャプフゥォンという音がした。

 視線が無意識に湖面に移っていた。円形の波の真ん中で、魚が跳ねたのだろう。

 魚の姿は見えなかった。

 上の方は距離感のつかめない青。私の真上から、山の向こう側まで。そして左右の上3分の1の壁面をしめている。青い半透明ガラスの裏側から均一なライトがあてられているような。

 下は深緑色。太古の時代に、その時代の技術と労力と財力を結集して作った巨大な鏡。

 間は茶色から黄緑にかけてのグラデーション。無作為ではない。配色と配置にセンスの良い統一感がある。地形や気候、あるいは無数の生物によってもたらされる、何らかのシンプルな構造があるはずだ。

 カサカサカサと音がして、腰が数センチ逃げた。トカゲのしっぽが左側の草の中に入っていった。しばらくの間、お互いに息をひそめてじっとしていた。

 また鏡面がチャプフゥォンとなった。光景は美しいままだった。

 サリンジャーにもどろう。

 離れるのは瞬時たったが、再び没入するには、少し時間がかかった。昔住んでいた町を、久しぶりに散策するように、少しドキドキしながら。