片根伊六 帳

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『フラニーとズーイ』を読んで、神様の存在について

 神様の存在を、僕は否定できないな。一〇歳のころに、爺ちゃんが関わっていた宗教に、僕が参加していたことが大きな要因であることは、間違いない。
 それを論理的に拒絶する年齢になる前に、なんとなくそこから離れていったのもだから、かえって今もなお、神様の存在が、僕の中にあるのだろう。たぶん、中学生になったころには、ほとんど完全に離れていたので、僕の生活に宗教があたのは、ほんの二、三年のことだと思う。
 その二、三年は、僕の人格形成に大きく影響していて、今もなお残っていると思うけど、まっこうから書こうと思ったことは無かったな。
 後で引用する、『フラニーとズーイ』の最後で、泣いてしまうほど感動したのが、きっかけで、これを少し書こうと思いついた。

 神様は、望みをかなえてくれる存在ではない。子供のころ、僕はそう思っていた。(思っていたと言うと、今はどうなのかということが暗に問題になるけれど、それはまた別で書いてみたいな。)
 神様に、そのものズバリをお願いしても、かなえてくれることは無いということを、経験的に理解していったのだと思う。だから、心の中で、お祈りをしながらも、そのことは実現しないんだ、と思っていた。そうすることで、逆に、望みがかなう可能性が高まると密かに思っていた。
 神様は、あからさまに望みを言っくる人を、あまり好んでいない。だから、ずうずうしく、望むがかなうなんて思ってはいけない。神様は、望みがかなわない状況を想像しているような人を、好ましく思っている。だから、望みがかなわない状況を思い浮かべながら、心の中でお祈りをするのが良いのだ。ひたすら、「なみょうほうれんげきょ、なみょうほうれんげきょ、なみょうほうれんげきょ、なみょうほうれんげきょ、なみょうほうれんげきょ……」と。
 そうすると、不思議と、望みがかなう確率が高まるのだ。だから、せっぱつまった時は、そうした。
 ところで、ここで、『フラニーとズーイ』の最後のあたりから引用させてもらう。

いずれにせよある夜、番組に出る前に、僕がひどくつむじを曲げたことがあった。僕がウェイカーと一緒にまさに玄関を出て行くとき、シーモアが僕に靴をきれいに磨くようにと言ったんだ。それで僕は頭にきちゃったわけだ。スタジオの観客なんてみんなうす馬鹿だ。アナウンサーだってうす馬鹿だ。スポンサーもうす馬鹿だ。そんな連中のためにわざわざ靴を磨き立てるなんてごめんだねと、僕はシーモアに言った。それにだいたい連中の座っている位置からは僕の靴なんて見えやしないんだ。でもとにかく靴は磨くんだ、と彼は言った。おまえは太ったおばさんのために靴を磨くんだよ、彼はそう言った。何のことを言っているのか、僕には理解できなかったけど、彼は例のシーモア的な表情を顔に浮かべていたので、僕は言われたとおりにした。太ったおばさんっていうのが何を意味するのか、彼は説明してくれなかったけど、それ以来番組に出るたびに、とにかく太ったおばさんのためにせっせと靴を磨いた。(中略)その太ったおばさんというのが実は誰なのか、君にはまだわからないのか? ああ、なんていうことだ、まったく。それはキリストその人なんだよ。まさにキリストその人なんだ。
『フラニーとズーイ』J・D・サリンジャー(著)村上春樹(訳)p.288~